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誰もが知っておきたい
「武道用語」その解説(日本空手道白堊会心得)

白堊会創設者である岩淵克之師範の解説です


残  心 止  心 放 心 平 常 心 不 動 心 虔  實 懸待一致 心・気・力の一致 明鏡止水 満水映月
月の心 水の心 気合い 掛 声 影を動かす 呼 吸 間合い 三つの先 守・破・離


「残心」について

残心とは、心を残すと訓で勝利を見ても油断することなく、相手に心を残すという意味である。

若し相手が立ち直れば、間髪を入れず直ちに、二段・三段の攻撃を加ええる体制及び、心得えで

あれよと云う教えでもある。自分の加えた攻撃を、確認することなく眼をそらし、構えをくずし心に

隙を作ってはならないということである。然し心を残そうと思って残すのではなく、心が自ら残り次の

働きの備えとなるように、精進努力することが肝要である。


 「止心」について

止心とは、心が一つの物に奪われることを云う。相手の攻撃を受けよう。はずそう、かわそうと思うと、それにのみ

心が奪われ、自分の動きが鈍り、不覚をとるものであると云う教えである。

故に相手の一点にのみ気をとらわれることなく、相手の頭上から爪先まで、一目で見られる心境でなければ

ならないということである。


 「放心」について

放心とは、心を放すことで、残心と全く反対語のようであるが、内容的には同じ意味である。

即ち心を放すと云うことは、心を一つのものに捕らわれないようにとのことであり、心があるものに捕らわれれば

そのことに心が奪われ、その働きが欠けると云う意である。

いつでも心を自由自在に放つことにより、あらゆることに、対処することが出来るのであり、即ち残心が得られるのである。

          又、心がものに捕らわれないで全力をあげて攻撃をすれば、自づとそこに残心が生まれるのである。
 
                             

   
「平常心」について

人は平常と異った場に臨むく心に、多少の変化が生ずるのである。まして極度に緊張を要する場合

心を動かすことなく平静な心「平常心」で対処して行くことは、極めて難しいものである。

勝負とは、自分だけの活動でなく対人的活動であって、相手の動きによって、

臨機応変、適切に処してゆかねばならないのであり、ことごとに心を引かれたり、感情を動かしては

ならない。即ち相手の動きに心を止めず、心は常に静かで、異常に興奮することなく、心を広く真直ぐ保ち

平常の心と変わらない状態で、活動しなければならない。

 
「不動心」
について

不動心とは、如何なる危急に直面しても、動じない心の事である。これは「巌の身」とも云われ、

何時如何なる場合でも、泰然自若(たいぜんじじゃく)として、決して心を動揺させてはならないと云う教えである。

勝つか負けるか生か、死か、絶体絶命の危機に直面しようとも、

大きな巌のように何物にも動じぬ不動の心を持てとの教えである。

泰然自若 (たいぜんじじゃく)の意味
 おちつきはらって物事に動じない。安らかでもとのまま変化せず平気な様子。


「虔實」について

心・気・体・構え・力・技のぬけて隙のあるところは、虔でありその満ち満ちて、隙のない状態を実と云う。

相手の虔をついて、勝利を得ることに心すべきである。


「懸待一致」について

懸待一致とは、待つ内にも懸ける気を含み、懸ける内にも防ぐ技が含まれている事を云う。

即ち懸ける間にも相手の出ようによっては、どのようにも対応できるようにして、又、待つ間にも相手の技の

尽きた所をよくとらえ、直ちに打つ、これを懸待一致と云う。

「懸中待」「待中懸」とも云われ、懸つ待は異なるものでなく、同じ物の表裏一体を指す。

懸るうちにも待ちあり、待つうちにも懸りあり攻めながら守り、守りながら攻める心得のことである


「心・気・力の一致」について

心の相手の隙を認めた瞬間、間髪を入れずに心が働き、それに応じて技が生まれる。

此の間一分の隙もないことを、心・気・力の一致と云う。

「心」とは、知覚し、判断し、思慮分別(シリョブンベツ)を廻らす(メグらす)もので、心の静的な面である。

「気」とは、意志であり心の判断によって活動を起こすものであり、心の動的な面である。

「力」とは、五体の力であって突く力・蹴る力及び、踏み込む力である。即ち突き、蹴る力及び、

踏み込む力である。即ち突き、蹴り打ちに充分な体勢・体力及び、体の動き運びである。

心・気・力の三つを例えれば、心は、水のように静かで、気は、風のような動きで、力は波のようなものである。

風が静かな水にあたると、たちまち波瀾を生じて、起伏萬状に変化きわまりの状態になる。

心・気は理で、力は業(ワザ)であるとも云える。

思慮分別(しりょふんべつ) の意味
 いろいろと心を働かせて深く考え、識別し判断を下すこと。また、そういう能力。


「明鏡止水」(メイキョウシスイ)について

人間の歴史と共に生きてきた鏡は常に人々の真心によって磨き清められて来た。

一点の曇りもない鏡のような心の意味である。止水とは、静かな水・清く澄んだ水のことで

即ち邪念がなく、明らかな様のことである。止水も鏡の様に、対象をそのまま映す事が出来ると云う意味である。

明鏡止水(めいきょうしすい)の意味
 邪念がなく、静かに落ち着いた心境のこと。わだかまりのない心を曇りのない鏡と澄みとどまる水にたとえて言



「満水映月」について

中天の月は、皓々として光を発し、あらゆるものを照らす月があれば、水に映り(ウツリ)、大海に映じ(エイジ)、川にも映る。

湖や沼にも映り、草木の露にも映り、大に映り、小にも映る。動に映じ、寂に映じて洩らすところがない。我々は、水ともなり

月ともなりえる。相手が攻めんとすれば、それより早く比方から攻め、相手が攻めてくればそれに

交して掃う(ハラウ)出れば迎え、逃げれば追う、相手の微妙を知り我より即く応ずる心の意である。


「月の心」について

勝負に際し、自分は天上の月のような心となって、相手を一体に見下す。月は中央に懸って山を照らし、谷を照らし

野を、家を、草木を、そして人を照らす。月は自分に向うものは全て、これ萬物を照らす。

そのように我々は、相手に対してその形をことごとく照らす心を、持って当たらなければならない。

窓を開けるや否や、室内に月の光がさすように、相手に隙があれば、瞬時の間もおかず、直ちに攻め込む。

仮初め(
カリソメ)にも疑いの心を起こし攻めおこたることがあってはならない。

月が曇れば、地上を照らすことは出来ない。我々に邪念妄想があると、相手の実相が解らず、従って隙があっても

攻めることが不可能になる。又月がかけゆく様に、我々の心も欠ける処があると、光が薄くなり

良く物事が解らなくなる。故に何時でも皓々(コウコウ)たる満月が中央に輝くように、心を養い冴えた技で相手に対せるように

日々の稽古をすべきである。常に真如(シンニョ)の月を我が心とせよと云う教えである

仮初めの意味(わずかでも) 。真如の意味(ありのままの姿)


「水の心」について

水の心の教えは、勝負に際し相手に対する時の心境の理を説いたものである。まず我が心が水のように、

清く澄み、風もなく静かであれば、満月は丸く、三日月は細く月影をうつし手に取るように、明らかに映る。

然(シカ)し水が濁って波が立つと、月影は清らかにならず、形が乱れ、影は千々に砕けて捉える事は出来ない。

相手に対して、攻めんともせず、防がんともせず平然憚然と相手を見れば、相手の動きが、すべて我が心の鏡に映る。

若(モ)し、相手を攻めて、打つことだけに心が騒げば、相手の動きや思惑が解らず、かえって相手に乗せられる。

又防ぐことのみに心を奪われて心が濁れば、相手の姿を見抜くことが出来なくなる。

又、自分より激しく懸ける間にも、自分の心が静かであれば、相手の応変が直ちに自分の心に映り、守る時にも

相手の隙が見えて、瞬時に攻めることが出来るのである。心が清く静かな水のようにあれば、常に

真の月が映るように、
応変(オウヘン)
自在に動くことが、出来るとの教えである。

応変の意味(思いがけない出来事に応じて、適切な処置をとること)


「気合い」について

気合いとは、気力を全身に満し少しの油断も、邪念もなく、従って相手から犯されることもなく、良く相手を

制する一種微妙な心身の作用のことを云う。即ち無声・有声とを問わず全身に充実した、気力と心とが一致した状態であって

相手に少しの隙をも与えないと同時に、相手に少しでも隙が生じたときは、直ちに攻め込むことができる状態を云うのである。

長年の修行によって、心と眼が明らかになり、心と気力が一致されていると、自ら様々な技や力が生まれてくるものである。

気合いには、静的状態と動的状態の両面がある。即ち相手の隙を狙うときは、心に少しの油断もなく、邪念もなく、萎縮(イシュク)も

恐怖もない。これが静的状態である。又、相手に対し
躊躇(チュウチョ)することもなく、機をみて勇往邁進(ユウオウマイシン)する。

これが、動的状態である

勇往邁進(ユウオウマイシン)の意味目標に向かって、わきめもふらず勇ましく前進すること。

掛声」について

掛声とは、内に充実した気合いが、自然に必要に応じて外に発する事を云う。口先だけで必要以上に発するのは、

無益であり慎むべきである。掛声によって気力を増し、攻撃の勢いを加え相手に威力を感辞させることもあるが

あくまでも掛声は気を見て必要に応じて掛けるべきで、無用の発生は元に慎むように心掛けたいものである。


「影を動かす」について

影を動かすと云うのは、相手の心が良く解らない時にこちらから、強く仕掛けるように見せて、相手の手段戦術を見ることである。

例えば相手が後手に構え、あるいは全く構えをしない時、ふっと自分のほうから攻撃をかけようとすると

相手は思う心を構えに表すものである。この時、その顕れを知ってそのまま利を受けてたしかに勝つべきところが

解るのである。この掛け引きを学び精進し、勝利へのみちを極めてほしいものである。


「呼吸」について

互いに呼吸を計ると云うことがあるが、呼吸は実は空手の練習にとっては大切である。人は吸い込む時は、

十分な力を出し得ないと、同時に敏捷(ビンショウ)に動く事ができないものである。

敏捷に然(シカモ)も充分な力を出すには、必ず息を止めている瞬間である。 力を出す時に、良く掛声をかけるが

声そのものが大切なものではない。掛声をかけるには、必ず息を吐かなければならないから

充分な力を出す時に、自然に声を出す習慣がつくのである。従って相手と対した時、相手が息を吸うところを

自分が息を吐きながら打ち込むことが、もっとも有効である。

それで平素から呼吸を相手に悟られないようにしなければならない。


「間合い」について

間合いとは、自分と相手との距離のことである。勝負に於いて、間合いを知ると云う事は、非常に大切なことであり

真の間合いは、相手の強弱・体の大小・動作の

緩急・又は相手の所持する武器等によっても、変化しなければならず、一定のものであってはならない。

「三つの間合い」について

イ.近い間合い   ロ.一足一挙の間合い  ハ.遠い間合い

(注).間合いを取る際は、我より近く、敵より遠い間合いに、留意することが大切である


三つの先」について

先とは、機先を制する先である。相手に対した場合、常に機先を制し好機を摘かんで攻め立て、相手を倒す

追攻めの手をゆるめない、これが、先である。


「先々の先一懸の先」

両者が対した場合、互いに相手を攻撃しようと云う意味を持っている。此の攻めようと

する意志を、一つの先と云い、その時、自分は相手の意志を早く察知して、

相手が技を仕掛ける先に、自分から攻めていく。勝負に於いて非常に有利な働きをあうる。先手必勝である。

「先の先一対の先」

両者が間合いに相対した時、相手が自分の隙を認め、攻撃する意思をもって攻めて来た時に、

相手の動きをあらかじめ知って、自分もそれに対応する。動きを遅れずに起こし

相手の動きの効を泰さない先に、勝を制する働きを云うのである。

「後の先一先後の先」

相手が自分の隙を、見い出して攻めて来た時に、その攻撃を受け、沸ってあいての

技を無効にして、攻撃をしかけ勝を制することである。先を得るには、精神的には、常に攻勢を保ち

拳足は、いつでも直ちに攻撃出来る状態にあり、五体は何時、如何なる場合といえども

思うように敏捷に正確に動きを得るように心掛けていることが大切である


「守・破・離」について

「守」 守とは、基本に従い、師や先輩の教えを忠実に守り、精進努力する段階であってこの時代は努力の意識が

        最も強くなければならない時代である.。基礎的修業の時代である。空手道を学ぶにあたっては、指導者や

         先輩の教えを忠実に守って稽古に励み、空手道の理念や技を修業する時代であり、頑張りぬく心の非常に

         大切な時代である。良くその技術や理念を学んで、有段の腕前や識見を身に付けるまでの過程を「守」と云う

のである。

「破」 破とは、ある程度の修業が出来た後、自己の力や精進によって、一応これを破る段階であって、この時代は

   「守」の時代に感じた努力の意識が、
漸次(ゼンジ)薄らいで努力しても左程 努力と感じない いわゆる、

没入の時代であると云ってもいいであろう。空手道に於いては、今まで学んだ、師や先輩の教え、

技術や理念を、充分に体得して自己のものとし、尚進んで研究的な態度が、非常に強くなり、次第に

  内面的に深く考え修業の中に喜びを感じて来る時代である。これまで、師や先輩んの教えを守ってより

以上の力を身に付ける。この時代を「破」と云うのである。

「離」
  離とは、破の心境や、力の一段と進歩した状態を云うのであって、これは修業の最終の段階である。

          いったん自己の研究や精進に依って破り、自分のものとして築いたものより再び抜け出して作為的・

意識的なものより、離れて最も、法を失わず矩を超えない状態の時代である。即ち心身共に

自由自在であり、空手道の技によってその妙境を極め、豁達(カッタツ)自在の状態を云う。

又そこに自然と創意を生じて来る。尚、進み新しい空手道の世界を創り上げ境地を拓くことも出来る。



守破離とは


物事を習得する段階を三つにわけた「守破離」(しゅはり)という言葉があります。

もともとは、江戸時代に川上不白が「不白筆記」で、茶道の修業段階の教えとして

紹介されました。以後、諸武芸の修業段階の説明にも使われています。

「守」とは、師匠の教えを正確かつ忠実に守り、物事の基本の作法・礼法・技法を

身につける「学び」の段階をいいます。

「破」とは、身につけた技や形をさらに洗練させ自己の個性を創造する段階をいいます。

「離」とは、「守破」を前進させ新しい独自の道を確立させる段階をいいます。

第一段階の「守」をいかに身につけるかで、「破離」へと続く、その後の自己成長の

大きさが決っていきます。助言を喜んで受け入れていくことで、将来の「離」に

到着した時、自己をいっそう高めていく事ができるのです。思い通りにならない時こそ

それまで培った土台が、自己を助けてくれます。自己を発展させる道に、

終わりはないのです。
      

(社団法人倫理研究所職場の教養 5月号より引用)

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